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ハーシュマン『情念の政治経済学』
・「人間を「あるがままの姿において」見ることがなぜかくも強く要請されたのか・・・17世紀に強い確信として定着した…こうした探求の目的は、道徳的な訓戒や地獄の脅しよりも効果的な、人間の行動パターンを生み出す方法を発見することにあった。」(12頁)

・パスカル、18世紀初期、ヴィーコ、マンデヴィル:「私的悪徳」の「公的利益」への転換。情念の利用。
・アダム・スミス『国富論』

・情念には情念を。スピノザ:「情念は、それに対抗するより強い情念がない限り抑制することも除去することもできない」 ヒューム:「したがって利害にとらわれている情念をコントロールできるのは他ならぬその情念自身のみである」

・マキャヴェッリ

・「一方では、「利益はうそをつかない」とった格言は、もともと人間がすべての願望を秩序正しく合理的な形で追求するよう推奨していた。基本的な動機付けとなっている情念が何であれ、思慮深さとともに打算的合理性を人間の行動に与えることが目的であった。しかし他方、・・・強欲、貪欲、金銭欲などとして今まで知られてきた一種の情念は、野心、権力欲、性欲のような情念に対抗し、それらを抑制するために有効に利用できるようになった・・・」(38−39頁)
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・「ここにいたって、情念同士を対抗させるというこれまで展開してきた思想の流れと、利益の教説とは結びつくことになる」(39頁)

・「利益と情念の対立という考えが初めて現れたのは、私の知っている限りではローアンの前掲書〔『キリスト教世界における君主と国家の利益について』〕」(40頁)

・16〜17世紀に第3のカテゴリーが台頭。しかし18世紀には情念の優位性を説く反動も。



# by oomi_oiwake | 2009-06-06 20:19 | Trackback | Comments(0)
アドルノ
社会全体が狂っているとき、正しい生活というものはあり得ない。
# by oomi_oiwake | 2009-02-14 15:50 | c
oomi oiwake
大味追分。波の花の季節が来る。

5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。
# by oomi_oiwake | 2008-12-09 21:10 | Comments(0)
liberty
大味追分の時間の流れはどこでも同じである。

この論文の主題は…市民的ないし社会的自由である。すなわち、社会が個人に対して当然行使してよい権力の性質と限界とを、問題にするのである。(215)

…むかしは…自由とは、政治的支配者たちの専制から身を守ることを意味していた。(同)

支配者が社会に対してふるまってもよい権力に、制限を設けること…この制限こそが、彼らが自由ということで意味していたものだった。(216)

今や、「自治」とか「民衆の民衆自身に対する権力」というようなことばでは、事の真相を伝えることはできない、ということが認められるようになった。権力を行使する「民衆」は、権力を行使される民衆と必ずしも同一ではない。また、いわゆる「自治」とは、各人が各人によって治められることではなく、各人が他のすべてのものによって治められることである。さらに民衆の意志とは、実際には、民衆の中でもっとも活動的な部分の意志、すなわち多数者あるいは自分たちを多数者として認めさせることに成功する人々の意志である。したがって、民衆がその成員の一部を圧迫しようとすることがありうるのであって、これに対しては、他のあらゆる権力の濫用に対してと同様、十分な警戒をはらう必要がある。(218)

政治の問題を考える際に、「多数者の専制」は、今では一般に、社会が警戒することが必要な害悪の1つに入れられているのである。(219)

社会は多くの種類の政治的圧迫よりもさらに恐るべき社会的専制をなすことになる。(同)

この論文の目的は、用いられる手段が、法的処罰という形の物理的力であれ、世論という道徳的強制であれ、強制と統制という形での個人に対する社会の取り扱いを絶対的に支配する資格のある、1つの非常に単純な原理を主張することである。その原理とは、人類が、個人的にまたは集団的に、だれかの行動の自由に正当に干渉しうる唯一の目的は、自己防衛だということである。(225)
# by oomi_oiwake | 2008-10-21 20:18 | Trackback | Comments(0)
Oomi Oiwaka 14
大味追分はニット帽が安い。

・レポートは構成が大事である。序論であらすじを読み、本論で手筋を読み、結論でまとめと展望を読む。
・衣装や制服や身なりに気をつけるのと、同じ事である、と喩えてみる。
・やはり、運動をしてから徐々に山登りをする。ストレッチが大事。そう考えると、接続表現→演繹法の順序がよいのかもしれない。
・推理小説との比較で教えてみるのはどうだろうか。探偵は一人一人の証言を集め、矛盾のない一つのストーリーを作り上げていく。これしかない、というストーリーをつくりあげていく。
「私はAが犯人だと思う」→「Aが犯人である」
レポートも同じことである。つまり
「私はAであると思う」 → 「Aは正しい」
へと至るということ。そのために、証言を逐一当たるように、Aについて語っている本や資料を調べていく。そして、矛盾のない、無理のない一つの仮説を作り出していく。これがレポート。
# by oomi_oiwake | 2008-09-23 20:11 | c | Trackback | Comments(0)
Oomi Oiwake 14
大味追分. 今日も湿っている。

プラグマティスとは事実と具体性に執着し、真理を特殊な場合場合におけるそのはたらきに着目して観察し、そして一般化してゆく。(55)
# by oomi_oiwake | 2008-09-19 18:07 | pragma | Trackback | Comments(0)
Oomi Oiwake 13
大味追分.今日も蝉が鳴く。

 満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい。そして、もしその馬鹿なり豚なりがこれとちがった意見をもっているとしても、それは彼らがこの問題について自分たちの側からしか知らないからにすぎない。この比較の相手方は、両方の側を知っている。(470、功利主義論)

高貴な人は、その高貴さの故にいつも他人より幸福であるかどうかは疑問の余地があるとしても、その人の高貴さが他人の幸福を増し、世間一般がそれからはかり知れぬ恩恵を受けていることは疑いない。(472、同)

「最大多数の原理」によれば、まえに説明したように、究極目的は、量・質ともに、できるだけ苦痛を免れ、できるだけ享受が豊かな生存であり、ほかのあらゆるものが望ましい〔われわれ自身の善を考えるにせよ他人の善を考えるにせよ〕のは、この究極目的に関連するからであり、究極目的のためなのである。(中略)さきに述べたような生存が、最大可能の範囲で全人類に保障されるものであると言えよう。人類にかぎらず、本正常可能なかぎり、生きとしいけるもの全部に保障されるものである。(472-473)
# by oomi_oiwake | 2008-09-16 19:47 | utili | Trackback | Comments(0)
Oomi Oiwake 12
大味追分.今日もラジオに喝采が流れる。

majestas, sovereingnty
ヒンズレー…「主権という用語は、元来、そして長らく政治共同体においては最終的および絶対的権威が存在するという考え方を表してきた。…そしてその他のどの場所にも最終的および絶対的権威は存在しないということである」(F.H.Hinsley, Sovereignty, 2nd. ed., pp.1,26.)
(29〜30)
# by oomi_oiwake | 2008-09-15 21:14 | Trackback | Comments(0)
Oomi Oiwake 11
大味追分にも台風が来る。

つまり真理とは、彼らによれば、観念(それ自身われわれの経験の部分に過ぎないものであるが)が真なるものとなるのは、この観念によってわれわれの経験の他の部分との満足な関係が保たれうるからであり、経験の他の諸部分を統括することができるし、また無限に相次いで生ずる特殊な現象を一々しらべなくとも概念的近路を通って経験部分の間を巧みに動きまわれるからである、というにほかならないのである。

道具という意味で真なのである。
(48)
「道具的」真理観・・・
我々の観念が真理であるというのは、その観念が「働く」力をもっているということであるとする見方。
(49)

新しい真理とはつねに心の変遷過程の媒介者、調停者である。それは最小の動揺と最大の連続性とを与えるようにして旧い意見を新しい事実に娶わせる。ひとつの理論が真であるかどうかということは、その理論がかかる「最大と最小の問題」をどの程度解決しえているかに比例して計られることである。
(50)
# by oomi_oiwake | 2008-09-15 18:29 | pragma | Trackback | Comments(0)
Oomi Oiwake 10
大味追分.山が輝いている。

プラグマティックな方法とは、このような場合に当って、各観念それぞれのもたらす実際的な結果を辿りつめてみることによって各観念を解釈しようと試みるものである。今もし一つの観念が他の観念より真であるとしたならば、実際上われわれにとってどれだけの違いが起きるであろうか?
(38〜39)
パース氏は(中略)次のように述べている。およそ一つの思想の意義を明らかにするには、その思想がいかなる行為を生み出すに適しているかを決定しさえすればよい。

その対象がおよそどれくらいの実際的な(practical)結果をもたらすか
(39)

他のどこかに差異を作らないような差異なるものはじつはどこにも存しないのである
(42)
# by oomi_oiwake | 2008-09-13 19:59 | pragma | Trackback | Comments(0)
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